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名前がつかない

先週は、火曜日から金曜日まで、仕事を休んでしまいました。4日連続で休むのは、昨年の春に復職してから初めてのことです。
原因は、月曜日に心理検査の結果を聞いたことだと思います。それしか思い当たるものがないので。

検査結果が納得できないとか、腑に落ちないというわけではありません。ショックを受けた、というのとも違う気がします。
でも、検査結果に対して、何かしら自分の心がうまく対処できていないことは確かで、だから少なからず動揺してしまっているのだと思います。

木曜日に診察があったので、主治医の先生に、仕事を休んでいることや検査結果についてひとしきり説明し、「検査結果を、自分の中で消化できてないのかも」と言いました。
そうしたら、「消化する必要はないと思いますよ。いや、むしろ消化なんてしないほうがいい」と言われました。

自分としては、検査結果を、絶対的な尺度ではなく「良いようにも悪いようにも解釈できる」という相対的なものとして捉えようとは考えていました。けれども、「検査結果自体を疑う」という視点は、明らかに失っていました。
これは、私らしくないことです。

他人の言うことを鵜呑みにせず、何に対しても疑問を持つことが、良くも悪くも自分の持ち味だと自負していたつもりでした。また以前、心理検査に批判的な本や文章を読んだこともあり、知能検査やロールシャッハテストの妥当性に懐疑的な意見があることも知っていました。
しかし、いざ自分の身に降りかかると、この有り様です。さも「客観的にまとめてみました」的な説明を受けたら、コロッと真に受けてしまいました。確かに、検査結果に対する自分の捉え方は、凝り固まっていたと思います。

ただ、そのことと、いま自分が抱いている不安定さとは、少しズレているような気もするんですよね。
自分が動揺しているのは、自分の生きづらさを形成しているものを指摘されたにもかかわらず、それに対して名前をつけられず、大した説明もなく放り出されてしまったからではないかと思います。

対人緊張の強さについては、「対人恐怖症」とか「社交不安障害」とか「回避性パーソナリティ障害」とか、名前がつくかも知れません。
でも、それと因果関係があると思えるような、周囲からの刺激の受けやすさや、緊張しやすさや、処理速度の遅さといった特性については、何も説明されないままです。
そこに、やりきれなさを覚えるのです。

名前がつけられないということは、自分が感じている困りごとは、客観的には困りごととして認められないということなんでしょうか。
自分の困りごとは、専門家にも誰にも理解してもらえないし、共感してもらえないんでしょうか。
ほかの誰にも認められない自分の困りごとというのは、果たして“本物”なんでしょうか。
何だか自分でも、自分の主観が“本物”かどうか怪しく思えてきて…。

そんな拠り所の持てなさに、少し寂しく感じてしまっているのかもしれません。

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