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自己決定をめぐるあれこれ

障害 自己決定 考えていること 研究

前回のエントリの最後で書いた、『大変さの多い人ほど自己決定が求められる、あるいは「他己決定」が行われてしまう』ことについて、もう少し書き進めたいと思います。

疾患と自己決定

これは他人事ではなく、自分が身をもって感じたことです。

慢性化した精神疾患で、調子がなかなか上向きにならない時、薬を変えようとするなり、セカンドオピニオンを受けるなりしなければ、治療が停滞することがあります。維持療法では、極端に症状が悪くなることはないかもしれませんが、極端に症状が良くなることも見込めません。劇的な変化を望むならば、治療を変えるという自己決定が必要になります。

治療を変えた場合、症状が改善する可能性もありますが、逆に症状が悪化する可能性も高まります。改善するか悪化するかは、治療法が確立していない疾患の場合、いわば「くじ」のようなものです。精神疾患の場合、多くの人は判断力が低下しているので、悪い「くじ」を引く可能性が余計に高いと思います。ここにジレンマを感じるのです。

現状維持という「他己決定」ではなく、劇的な変化という自己決定を選べば、その結果が良くても悪くても「自己責任」として受け入れなければいけません。しかし、その自己決定は、本当に自分で選んだものなのでしょうか。慢性疾患という状態に置かれ、決定打となる治療が行われない中で、自己決定せざるを得ないように追い込まれているのではないか、と考えることもできます。

自己決定の楽しさとつらさ

自己決定と引き換えにした「自己責任」論は、新自由主義の台頭とともに広まった、という言説がよくされます。理屈としてはわかるのですが、だからといって、市場主義の歪みだとか昔はよかったというような考えには、少し違和感を覚えます。

昔から、自己決定権は理念として掲げられてはいましたが、その自己決定の選択肢は今よりもずっと狭いものでした。一方で、自分のことを主体的に決められてこそ一人前、という価値観もありました。子どもの頃に「自分のことぐらい自分で決めなさい」と言われて育った人も多いのではないでしょうか。
つまり、社会によってあらかじめ範囲を限定された上で、その範囲内での主体性の発揮を求められていたわけです。権利としての自己決定よりも、義務としての自己決定のほうが大きかったといえるかもしれません。

今は、その制限が社会構造の変化によって取り除かれ、主体性を発揮できる範囲が広がりました。しかし、いつの時代でも、アクセルに対してブレーキをかけたがる人たちはいるものです。自己決定に「結果の自己責任」を課すことによって、表面上はいかにも自己決定がフリーハンドであるかのように見せつつ、事実上の抑制をかけているのです。
結局、昔も今も、自己決定の中には「自分で決めて行動する楽しさ」と「自分で決めなければいけないつらさ」が同居しているのだと思います。その両者の振り幅が大きくなってきた、ということは言えるかもしれませんが。

重要でないことの重要さ

現代社会の特徴として挙げられるのは、意思決定に迅速さ・明確さが求められることと、主体性が重視されることです。大変さが多い人ほどその傾向が強まり、それに適応できないと見做された人には意思決定の代行が行われることになります。

例えば、昼ごはんに何を食べるかということは、普通の人にとっては大した決定ではありません。ことさら自己決定だと意識することもありませんし、意思が曖昧なままでもどうにかなるものです。
しかし、食事介助が必要な人が日中活動の場を利用する場合、昼ごはんに給食を食べるかコンビニ弁当を食べるかということは、普通の人よりも強い自己決定が必要です。何を食べるかと、介助を受けられるかどうかが不可分だからです。また、給食を食べるということは、すなわち、障害福祉サービスという「契約」に基づく行為を受けるということでもあります。

主体性を発揮することが難しい人に対しては、契約を伴うような重要事項について、成年後見制度などのバックアップがあります。財産の売買や治療への同意のように、迅速かつ明確な意思決定が必要な場面は確かに存在します。こうした場合に、現に成年後見制度などのシステムが役割を果たしていることについては、とりあえず是認するとして…。

しかし、昼食に何を食べるかというような一見重要にはみえない事項も、人の生活においてはやはり重要だと思うのです。そして、重要事項と重要でない事項との間には、境界があるわけではありません。重要ではないとされることの多くも、実は、何らかの契約に基づいていたりするものです。
にもかかわらず、重要にみえない事項は、重要と認識されないがゆえに、無意識のうちに主体性を求められたり、安易に他者によって意思決定を代行されがちなのではないかと思うのです。


じゃあ、どうあるべきだと思うの?ということについて、次回のエントリで書く予定です。

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