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自由度、高めたい

前のエントリから、続いてるような続いてないような…。でも、テーマとしては連続しているので、あわせて読んでもらえるとわかりやすいかも、です。

電話勧誘の「手口」

数年前から、セールスの電話が頻繁にかかってくるようになりました。相手はその都度違うのですが、自分の名前をフルネームで知っています。どうやら、どこかから名簿業者に漏れたようです。少ないときでも週に1回ほど、多いときは1日に2、3回電話がかかってきます。本当にうっとうしいです。

しょうがないので、今は、ケータイの電話帳に登録していない番号は着信拒否にしています。それ以前も、知らない番号からの電話には極力出ないようにしていたのですが、たまに間違えて出てしまうことがありました。

ある時、珍しく0120からの電話だったので出てみたら、クレジットカード会社と提携している保険会社のセールスでした。悪質な不動産投資などの勧誘とは違い、名簿業者から個人情報を得ていたわけではありませんが、セールスには違いありません。内心苦々しく思いながらも、しばらく話を聞きました。

電話の相手は、「少しお時間いただけますでしょうか」から始まり、保険のメリットについてよどみなく喋ります。ただし、一方的に説明するのではなく、時々こちらに応答を求めるのがミソです。「月々◯◯円だけで、◯◯円も受け取れるんですよ。安心だと思いませんか?」というような感じで。
で、ひとしきり説明が終わったところで、こう言うのです。「今なら、この電話上で保険の契約を済ませることができます。いかがでしょう?」と。

電話に出てからここまで、約5分。依然として、保険にはまったく興味がわかなかったのですが、それを置いても、こんな短時間で決めさせるのはどうかと思いました。なので、「少し検討させてください」と言いました。
すると、それを遮るように、この保険がとてもお得であること、そして期間限定のキャンペーン中で、いま契約しないと特典が適用されないことを、まくし立ててきました。私は、それを聞きながら思いました。

なるほど、電話勧誘ってこういう手口なのか。ほかの人に相談する時間や、冷静に考える余裕を与えずに、その場で決めさせようとするわけね、と。

ポスト「契約社会」に向けて

振り込め詐欺のような悪質なケースだけでなく、一種のセールス手法として、こうした手口が使われています。そして、それを後押ししているのが、現代の「契約社会」だといえます。

特に、「医師と患者」、「教師と生徒」、「弁護人と依頼人」のような、暫定的な契約に基づく関係性ではそれほど時間をかけることはできない。時間をかければ経済的効率が悪いので、前者の側から後者の側に対して、「早く自己決定するように」という圧力がかかることが多い。専門的な経験の豊富な前者が後者になり代わってその利益を代行する形で決定することを、一般的に「パターナリズム(paternalism:温情的干渉主義)」と言うが、様々な文脈で「説明責任 accountability」が声高に叫ばれている現状では、後者に「責任」のほとんどを負わせてしまうことができる「自己責任」の方が、前者にとっては、パターナリズムよりも“便利”である。当人の置かれている状況を全般的に把握することが「責任」として要求されるパターナリズムよりも、「契約」という限定された枠内で、専門的知識を当人に正確に提供しさえすれば専門家としての「責任」を果たしたことになる「自己決定」論の方が、業務を加速することができる。

―― 仲正昌樹『「不自由」論―「何でも自己決定」の限界』ちくま文庫 p.195-196

「早く決めるように」という圧力がかかったときに、「検討します」と言うことによって、時間の猶予を得ることができます。これ、重要だと感じます。

それとともに、社会に求めたいのは、

  • 決定するまで待つ姿勢
  • 一度した決定を後から変えられるという保障

です。この2つが一人ひとりに確保されなければ、誰も、フェアな形での自己決定なんてできない、と思うのです。

正しいことなんて、わからない

「フェアな形での自己決定」とは、「正しい自己決定」ではありません。そもそも、何が正しいかなんて、誰にもわかりません。
例えば、今やりたいことをやるのが正しいのか、将来のためになりそうなことをやるのが正しいのか。短期的視点に立つか長期的視点に立つかによって、個人の利益についての捉え方もまったく変わります。
どちらの視点も間違ってないし、あるいは、どちらも正しくないのかもしれません。

世の中の誰も、誰かにとって絶対的に正しいことなんてわからないのですから、「これが正しいのだ」と線引きすることも、その線引きを人に押しつけることも、本来ならできないはずです。
だから、立場が強くなりがちな人が「戒め」として「パターナリズム」という負の規範をもつことは、意味があると思います。ただし、それは「パターナリズム的な関わり」を全否定することではありません。

影響を受けたり与えたりするのは、悪いことではなく、むしろ当たり前の関係です。皆、多かれ少なかれ、あーだこーだ言い合ったり、おせっかいし合ったりしつつ、生きています。相互関係の中でさまざまな影響を受け、ウダウダ考えたりモヤモヤしたりしながら、なんとなくの意思を作っているのだと思います。

人間関係は混沌としていて、簡単に割り切れるようなものではありません。「完全なパターナリズム」や「完全な自己決定」というのは、理論的には考えることが可能ですが、現実の社会ではたぶんあり得ません。割り切れないから難しくもあるけれど、考え甲斐もあり可能性もあるのだと思います。

障害者と健常者の関係だって、いつも「支援される側とする側」というわけではありません。でも、だからといって、支援しないというわけでもありません。もっと、とくに名前がつかないような、曖昧な関係であってもいいんじゃないか、と思うのです。

今は、人間の意思や人間関係をスパッと切り分けようとして、なんか窮屈になっているような気がします。
そんな社会に対して、ささやかながらオルタナティブな視点を提示したいと思います。人の生き方の「自由度」を、ちょっとだけ高めるために。それが、これから数年間の目標です。

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