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「こだわり」というラベリング

障害 考えていること

たとえば幼少期に親から虐待されていたことをとめどなく話し続ける人がいたとします。そういう場合、なぜ親が虐待をしたのかについて、その人なりにある程度の結論は出ていることが多いといいます。けれど、「そうなんだけど、そう思いたくない」という思いもあり、常に揺らいでいるものなのだというのです。その揺らぎに対して決して、「それが葛藤の原因だ」とはっきり特定しないことが大切なのだと名越さんはいいます。
「トラウマがある」「葛藤がある」といった自分自身へのラベリングを認めることは、一般的に了解可能な、安全な域に自分を留めるだけであり、自分そのものに向き合っていないともいえます。そうした口当たりのいい言葉を答えさせるインタビューは、本質に迫っているとはいえません。
カウンセリングもインタビューも何か結論めいたものを引き出すことを目的としないほうがいい、名越さんの話を聴いていてぼくもそう思いました。

(中略)

「待つことはとても大事です。だから言わせる技術より、言わせない技術がすごく大切だと思います。つまり、まとめさせないということです。『要するに、僕はトラウマがあるんですよね』とか『僕は母親との間に葛藤があるんです』というのは、何にも語っていないことといっしょなんです」

―― 藤井誠二『大学生からの「取材学」』講談社 p.24~26
(※文中の「名越さん」は、精神科医の名越康文氏のこと)

この文章を読んで、私は「こだわり」という言葉の使い方を連想しました。

「こだわり」は、自閉症の「三つ組の障害」といわれる障害特性の一つとされています。「三つ組の障害」とは、自閉症の人にみられる特徴として「社会性の障害」「コミュニケーションの障害」「想像力・こだわりの障害」の3つがあるという考え方です。
治療の場で、客観的な診断基準として用いる場合には、これは意味のある捉え方なのだろうと思います。

ただ、この考え方には「本人がどう感じているか」という視点がありません。
「こだわりがある」とされている人にとって、その人の中にある「こだわり」はどういう存在なのでしょうか。単につらいものではなく、もしかしたら本人にとって愛着や思い入れのあるものなのかもしれません。

「◯◯さんにはこだわりがある」と、その人の行動や思考をラベリング(レッテル貼り)することは、それ以上掘り下げて考えることをストップしてしまう気がします。
「こだわり」と呼ぶ行動の中身は、何でしょうか。その人のどういう思いから現れているのでしょうか。そして、その思いはどういう背景から生じているのでしょうか。
答えのない問いかもしれませんが、わからないからこそわかりたいと、絶えず思い続けることが大事な気がします。

また、「こだわり」は自閉症という障害をかたちづくる要素ではありますが、だからといって、「こだわり」自体が悪いわけではないという考え方も必要だと思います。
「こだわり」から起こる問題行動も、周囲との相互関係の中で生じる「あつれき」だと捉えれば、一方的に「こだわり」の側だけが悪いとはならないのではないかと思うのです。

「こだわり」のようなラベリングを使わないことは、かかわる人にとっては根気のいることかもしれません。でも、あえて「まとめない」ことで見えてくるものも、たくさんあるのではないでしょうか。

【追記】
この文章は、もともと職場で書くように言われて書いたものでした。
で、書いて出したら、なんか問題にされちゃいましたよ。
「現実的ではない」って。

そんな問題になるほど、過激な意見だとは思ってないのですが。
この程度で問題になるんじゃ、もう自分の言葉では何も書けませんね…。
べつに、アジテーションしたいわけでもないですし。
自分の想いは、今まで通りこっそりと、このブログで綴っていきたいと思います。

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