読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

よい境遇にある人は、そうじゃない人のことはわからないものなのかな

考えていること 社会 自己決定

【2015/11/03追記】

実際にホームレス支援をしている人の言葉は、やっぱり重いです。

ネット右翼って一口に言うけど、いろんな位相がいるんだろうな。SEALDsに対してまぶしさを感じてるような人もいるんじゃないかな。実際、僕が知っている、路上で見ている若者と、SEALDsの若者は全然ちがいますから。これはSEALDsに対する批判ではないですけどね。

http://lite-ra.com/2015/09/post-1542_4.html

「SEALDsに対してまぶしさを感じてるような人」とSEALDsのメンバーは、どれだけ近いのだろう、と思います。
ただ、多額の奨学金を借りている学生もスピーチしているのを見て、この後の文章を書いたときより、私の意識は多少変わっています。

また、文章の中盤あたりに書いたことに関して、つい最近、本人(芝田万奈さん)がコメントしていました。

もう一つ、女性のことについていうと、スピーチをするとき、将来に自分の子どもが生まれたときの社会を想像したりするのは、たぶん女性のほうが得意なのではないかと思う。未来のことを想像してやるのは、すごく重要だと思います。

ただ、私自身が7月にスピーチしたとき、「私が日常で幸せを感じるのは、家に帰ってお母さんがご飯を作ってくれているときだ」と話したら、大炎上した。最初に批判を想定しなかった私も悪かったと思うけど、ポジティブに考えると、日本社会でそういうことを言って「それはセクシズムだ」と反応してくれる人がいるのは良かった。私は、お母さんが女性だろうと男性だろうとどちらでもいいと思っているし、個人の自由が尊重される社会がいいなと思っているので。

http://blogos.com/article/141783/?p=2

彼女が「日本社会でそういうことを言って『それはセクシズムだ』と反応してくれる人がいるのは良かった」と考えたのは、本当にすごく良いことだと思います。
「大炎上した」ことは、これまで全然知りませんでした。なので、炎上に乗じて文章を書いたわけではありません。

また、特定の団体や個人を誹謗中傷するために書いたと思われるのは心外で、あくまで主張の内容や、その主張の背後にある意識の中に、批判すべき点があるということです。
人間なのだから、良い面も悪い面もあるのは、当たり前のことです。

【追記ここまで】

-

 

連日行われている国会前のデモ活動については、デモ活動一般については必ずしも肯定的ではない*1私も、きわめて大いに賛同しています。

戦争法案は、これまでの原発再稼働や基地移設の話とは、次元が違う問題だと考えています。
戦争することの本質は、被害者になることではなく加害者になることです。人殺しすることを国から強要されることであり、これ以上の苦役はないと考えています。
もう、なりふり構っている場合でなく、それぞれの人がそれぞれできることをやるべきだと思っています。

SEALDsで集まってる学生は一種のファッション感覚だとか、既存の団体の人は組織動員だとか揶揄されがちですけど、そうだろうと何だろうと、実際に時間を費やして汗をかいていることには違いありません。
活動していることそれ自体に対して、批難される筋合いはまったくないと思っています。
重ねて書きますが、今はとにかく、やれる人がやれることをやるべきだと思っています。

 

以上が、まず大前提です。

にもかかわらず、以下で書くことは、それに水を差すもののように映るかもしれません。穿った見方のように思われるかもしれません。
でも、けっこう大事なことにも思えるので、書きます。

「水着とかマツエクいつ付けるかとかで悩んでる人間が、政治について口を開くことはスタンダードであるべきだと思う」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/249008

これは、いいと思うんです。
ただ、SEALDsで集まってる学生たちを見ると、「スタンダード」というよりも、むしろ均質化しているように感じて、それが気になっていました。

ニュースキャスターなどは、デモに参加してるのは「普通の学生」だと言いますが、その場合の「普通の学生」というのは、これまでは政治活動に参加したことのない学生という、それだけの意味でしかありません。
なのに、なぜ、どういうところが、均質に見えてしまうのだろう。ずっと考えていたのですが、やっとわかりました。

身も蓋もない言い方ですが、偏差値が高そうなんですよね。

 

「この場から見えるこの景色が、私に希望を与えてくれます。安倍さん、あなたにもここに立って見てほしい。」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835

学力がなかったら、「この景色」みたいな表現、出てこないでしょう。コミュニケーション能力が高くなかったら、あんな大勢の前でスピーチなどできないでしょう。

子どもの学力と家庭の所得が比例することは、だいぶ以前から指摘されています。「格差の再生産」という言葉もあります。
つまり、偏差値が高いというのは、単にその人たちが能力を持っているというだけではなくて、相対的にいえば、境遇が恵まれているということなのです。

ひとつ前に引用したスピーチの彼女も、少なくとも、まつげエクステがつけられるぐらいには、金銭的に恵まれてますよね(知らなかったですが、まつげエクステってけっこうお金かかります)。

 

「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せを、ベビーカーに乗っている赤ちゃんが、私を見て、まだ歯の生えない口を開いて笑ってくれる幸せを、仕送りしてくれたお祖母ちゃんに『ありがとう』と電話して伝える幸せを、好きな人に教えてもらった音楽を帰りの電車の中で聞く幸せを、私はこういう小さな幸せを『平和』と呼ぶし、こういう毎日を守りたいんです。」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835

とても恵まれた毎日ですね。これを「小さな幸せ」と呼んでしまうのですね。
この言葉からは、自分ほどは良い境遇にない人のことが想像できているとは、ちょっと思えません。

この「手紙」の前段では、沖縄の基地や東北の仮設住宅の話も出していますが、それらは彼女にとっては、抽象的な不幸の象徴でしかないのかなと思わざるを得ません。

山田昌弘さんがいう「希望格差社会」も思い起こさせます。

「いつか私も自分の子どもを産み、育てたいと思っています。」
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/254835

こういうことを、何のてらいもなく言える程度に、将来に希望を持てているんです。
「私は」ではなく「私も」と、さも当然の希望であるかのように。

 

さらに、「家に帰ったらご飯を作って待っているお母さんがいる幸せ」「いつか私も自分の子どもを産み、育てたい」という言葉には、ジェンダー役割に対する疑義がまったくないということも、指摘したいです。
というか、これ、ジェンダー規範そのものと言っていいです。

戦争になるか否かという以前に、「自分の子どもを産み、育てたい」と思っていても、さまざまな事情でそれができない人たちや、あえて「自分の子どもを産み、育て」ることをしない人たちのことは、想像だにしていないのか、あるいは例外的な人のことという認識なのかもしれません。
母親がご飯を作ってくれることや、女性が出産して育児することを、守るべき当然の「幸せ」と言って憚らない姿勢は、それ以外の生のスタイルの「幸せ」を認めないということになってしまいます。

彼女は、安倍に対して「知性や思いやりのかけらを感じたことがない」と言っています(それはその通りだと私も思います)が、彼女もある意味、少しばかり思慮が足りないのではないかと思えてなりません。

このようなスピーチを手放しで賞賛している人たちも、同じくです。

先日、森岡正博さんがこういうツイートをしていました。

 

これに批判的なツイートがあって、森岡さんは長いことやりとりしていたのですが、このツイートに賛同してリツイートしている人も多かったです。
私も、賛同のリツイートをして、その後にこうツイートしました。

 

いま読み返すと、森岡さんが言っていたこととは少しずれているような気がするし、話を広げすぎたような気もしています。
でも、このツイートを森岡さんがリツイートしてくれたことを考えると、当たらずも遠からずだったのかもしれません。ほかにも、いくらかの方にリツイートしてもらえました。

一方で、批判のツイートもいくらかもらいました。
なぜ、すべての人を包摂しなければいけないのか、すべての人がデモに参加する必要はないし、それを強要すべきではないだろう、というのがおもな批判でした。

批判のツイートをくれたのはデモに参加している方たちで、きっと自分たちの活動が貶められているように感じたのだと思います*2
でも、おそらく森岡さんも同じだと思うのですが、単にデモに参加する/しないという次元では、意見してないんですよね。

批判のツイートの方たちとは、まったく議論がかみ合わなくて、なぜなんだろうと考えていました。
でも、これも、やっと少しわかった気がします。

 

私は、彼らが自発的にデモに参加していることについて、卑下するつもりは毛頭ありません。
ただ、彼らは、自発的に参加しているのはその通りなのですが、自分が自発的に参加できる境遇にあるということは、自覚できてないのだろうと思います。

もっと嫌な言い方をすれば、自分のエリート性を自覚していないんだろうと思います。

選べるということは、自分に見合った選択肢が用意されているという境遇に恵まれているんです。
そういう境遇にない人のことは、頭ではわかるのでしょうけど、実感としてはわからないんでしょうね。

と、ここまで冗長な文章を書いてきて、なぜ私はこのような考え方をするのだろうと考えると、初めのほうに書いた認識に基づいているのだと思います。

戦争することの本質は、被害者になることではなく加害者になることです。人殺しすることを国から強要されることであり、これ以上の苦役はないと考えています。

私は、被害者になることよりも、加害者になることのほうが嫌です。
私は、自分が殺されることよりも、自分が他の人を殺すことのほうが嫌です。
国からの強要があろうとも、自らの意志をもって人を殺すことが嫌です。

これらのことは、私にとってはごく自然な感覚なのですが、他の人には必ずしも同意してもらえないようです。けっこう意外に感じています*3

私は、このような感覚が根底にあるから、被害者性よりも加害者性のほうが気になってしまうのかもしれません。
ここまでこうやって書いてきたのは、他の人が言うことを批判するのが目的ではなく、私自身の加害者性を見つめることが目的なのだと思います。

 

*1:文章の本旨とはやや外れるので、注の扱いにしますが、デモ活動一般については肯定的でない理由は、以下の3つです。
①主催者などから「◯万人が詰めかけた」と、参加人数を誇る発言がされることに対して、違和感があります。多くの人が意見していると主張したいのはわかりますが、一方で、民主主義のあるべき姿は、多数決一辺倒でなく少数意見も聞くことと主張されたりもします。これって、矛盾しませんか?
②デモ活動では、主張の強さや大きさが誇示されます。そのため、多くの場合、喋りが達者で人を惹きつけるのが上手い人が、前面に立つことになります。これは、本文の後半で述べている「強い人間」モデルの問題につながるものだと考えます。
また、これは懸念に近いのですが、
③デモの最大の意義は、不可視化されようとしているものを可視化することだと思います。この意義は大いに是認します。ただ、主張を強いものにしようとすればするほど、主張を一点集中型にせざるを得ず、結果として捨象されるものが生じます。つまり、可視化しようとすることで、ある別のものが不可視化されてしまう可能性があります。この不可視化されたものは、はたして何らかの形で掬われるのでしょうか?

*2:こんなことを言って何の得になるんだ、という感情もあるのだろうと思います。このような実利主義的な発想にあえて乗っかるとすれば、こう反論したいです。あなたは、「強い人間」モデルを問題にする私の姿勢に対して、足を引っ張っているではないか。一方の実利だけを主張して、他方の実利を無視するのはおかしいではないか、と。

*3:私の感覚が受け入れられない理由として、次のような誤解があるのかもしれないと考えています。
①まるで、殺すことのほうが殺されることよりも辛いことだ、と言っているかのように感じるのかもしれません。しかし、そのような第三者的な視点での殺す/殺されることではなく、自分自身がまさに殺す立場/殺される立場になったときの感覚のことを言っています。
②加害者感情を重視し、被害者感情を軽視しているように感じるのかもしれません。しかし、それはむしろ逆で、加害者は、自らの感情より前に被害者感情を受け止めたうえで、自らの加害者性に向き合うべきだと考えています。なので、たとえば厳罰化といったこととは、何ら矛盾しません。
③(②で書いたことから、さらに誤解されそうなので書きますが)私は、自分が戦争犯罪人になることや、裁かれたり刑罰を受けたりするのが嫌だと言っているのではありません。そのような事後のことは関係なく、人を殺すという行為それ自体を嫌だと言っています。

広告を非表示にする